電話でいろいろ話すのも気が引けて、平日のランチタイムに彼の店へとオープン以来訪れた真人さん。
ランチのお客が帰って、準備中となったところでそれとなく開店記念パーティーに来ていたカオリと連れとの関係について聞いてみます。
すると彼はかみさんの知り合いだから、とバックヤードで片付けていた奥さんを呼びました。
彼が奥さんに、パーティーに来ていた知り合いについて聞くと、連れの女性は昔の職場仲間で二十年近くの付き合いだということで、カオリさんを紹介されて、今度スタジオに体験に来ないか、と誘われたそうです。
あー、お前が体験に行くって言ってたヨガの先生ってその先生か、と彼が言うと、その先生がどうかしたの?と奥さんが聞きます。
真人さんは同じジムに通っていることと、あのパーティーで久しぶりに会って気付いたけど小中と同級生だったと説明しました。
すると、タチバナ、お前その先生と浮気でもしてるのか、と笑う彼に
何いってるのよ、昔から奥さんにぞっこんだもんねえ、と彼の奥さんがフォローします。
そういえば、と奥さんが続けて
あの先生は凄く腕が良いって評判なのよね。ヨガを極めてて特別な能力があるとか、病気がわかったりするらしいのよ。それで結構生徒さんから人気があってね、教えるのも上手いみたいだし。
それと余計なことだけど、今の旦那さんは再婚らしくてね。確か二人いる娘さんは旦那さんの連れ子で、もう大学生になって家を出てるんですってね。だから今はお金持ちの旦那さんと二人で暮らしてるみたいだけど、先生はほら、美人だしスタイルも良いしモテるでしょう。旦那さんの他に彼氏が居るんだって。先生が言ったわけじゃないけどみんなそう噂してるみたいね。
それってタチバナじゃないのか、と彼がからかうと、また何言ってるの、そんな人じゃないわよねえ真人さんは、とフォローする奥さんに、悟られないよう笑い飛ばして誤魔化す真人さん。
「やはりいつか浮気なんてバレるんだって思いましたね。まして彼女はスタイルも良いし目立ちますから。それと娘さんと血が繋がらない関係だったなんて初めて知ったんですね。そういえばよく喋るけど彼女は自分のことをあまり語りたがらないんですよ。別に再婚していたからって隠すこともないと思うし、昔の面影がなかったり特殊な能力を持ってたり、僕の理解できないことが多くて。そう気付いてギリギリのタイミングだったと思います」
ギリギリというと?
「あれ以上のめり込んでいたら、バレて面倒な事になるまでやめられないと思ったんです。ギリギリだったけど思い止まらせる理性が自分にあったんだと思いました。だから早く彼女にも話をしようと決めました」
そしてジム上がりにいつものコーヒーショップで待ち合わせた時、カオリさんに話を切り出しました。
これ以上続けてると戻れなくなりそうだから、もう会うのはやめにしよう、
するとカオリさんは意外な顔をして
「タチバナ君がそう決めたなら続けられないのかも知れないわね。でも」
話を止めてテーブルのコーヒーカップを見つめるカオリさん。真人さんは深刻な病状を告げられる患者のような気分で話の続きを待っていました。
「でもね、私は嫌なの。タチバナ君と一緒の時間が私には必要なの」
取り乱すわけでもなく、冷静にカオリさんは話します。
「それは僕も同じだよ。ただこれ以上続けるとだんだんのめり込んで離れられなくなりそうなんだ」
そう説明する真人さんを見て微笑むと
「嘘よ、タチバナ君はそんなことないわ。ある意味正直だけど、離れられなくはないのよ。私にはタチバナ君が必要だけど、タチバナ君はそれほど私のことを必要としてないわ」
真人さんはすぐ返す言葉が見つかりませんでした。
沈黙が続いた後、カオリさんが
「とりあえず今日は帰るわ。タチバナ君が言うことはわかるの。でももう一度会って欲しいの」
同意して頷く真人さんに
「じゃあ、また近いうちに」
と言い残して席を立ちました。
「もう一度会ってどうなるんだろうと思いましたけどね。考えてることがわからないから少し怖かったけど、彼女が言うようにもう一度会って最後になるならそれで終わりにしようと思いましたね」
そして後日、カオリさんとジム上がりに話すことにした真人さん。
「車に乗るように言われてね。乗り込んだら犬がいるんですよ。後で思い出すんだけどスヌーピーのモデルにもなった犬なんですよね、ビーグル犬。それで犬と一緒に移動して大きな公園にね、行ったんですよ」
しばらく一緒に遊んでくれる?と言うカオリさんの言うがままに平日の誰も居ない広い公園で犬とボール遊びをします。
ひとしきり遊んだ後、カオリさんが
「タチバナ君、今日でお別れになるなら、一つだけお願いがあるの」
「お願い?」
真人さんが聞き返すと
「この子、タチバナ君にもらってほしいの」
「もらうって?飼ってるんじゃないの?」
「ううん、私が飼ってるんじゃないのよ。高齢の飼い主がね、病気になって飼えなくなった子なの。私のところはもう犬がいるからこれ以上飼えなくて」
返答に困った真人さんでしたが、この子を引き取ってくれたらタチバナ君のことも忘れるようにするわ、とカオリさんから言われ、
「それで結局飼うことにしたんですよ。妻には自衛隊の元同期からお願いされたっていうことにしてね」
奥さんを説得し犬を譲り受けた真人さん。さらに別れたとはいえカオリさんと顔を合わせるのも気まずく、ジムも移ることにしました。
「別れるのに犬の面倒も見てジムも移って、何で僕だけって思いましたよ。けどこれで何事もなく解決するなら良いかなって思うようにしたんです」
突然、犬を飼うことになってご家庭で問題は無かったんでしょうか。
「そうなんですよ、苦しい説明だったけどなんとか妻も飼うのを許してくれて良かったですよ。ペットは娘達が小さい頃に猫を飼ってたけど、犬を飼うのは初めてだから慣れるまで大変でしたね。でも素直で人懐っこくてね、独特の可愛らしさがありますよね」
犬を飼うことになった以外は元の生活に戻れたということですね。
「まあ、そうですね。ただ彼女と関係をもって以来我慢できないくらい性欲が沸いてくる時があるんですね。元々全く無かったわけじゃないけどこんな身体中がムズムズするような性欲は今まで経験したことがないですね。それでもう何年も抱いていない妻にお願いして抱かせてもらったけど、昔の僕と同じで淡白な妻とのセックスはあまり満足できるものではないんです」
カオリさんによって身体の何か、眠っていた何かが目覚めた、みたいなことですか?
「ええ。だから彼女と別れられてホッとしたと思っていたのが時が経つにつれて彼女とセックスをしたいと疼くんですよ、身体が」
そう言ってグラスに入ったコーラを飲み干した真人さん。
「彼女をまた抱きたいって身体が疼いて我慢してる時、ふと気付くと犬がじっと僕を見てるんですよ。なんだかその目が、僕に抱かれてるときの彼女の潤んだ目にそっくりに見えてきて。彼女が僕を見ているような、見透かされてるような気がするんですね」
今では真人さんの方が、カオリさんを欲しているということでしょうか?
「そうだと思います。また彼女から連絡がきたら、拒否する自信はありません。いや、また関係を持つと思います。だから今はギリギリ我慢できてますね。自分で連絡を取るのをギリギリ理性で押さえてますから」
その会話を最後に真人さんとの話を終えました。
不思議な話ではありましたが、真人さんの口から話を聞いていると、納得してしまうようなリアルな体験談でした。
真人さんの話を聞いて思うのは、何かのきっかけで人は変わってしまうことがあり、それは若者だけの話ではなく人生の半分をすでに折り返した熟年層の方々にも十分にあり得る話だということです。
自分の理解できない物事に恐怖し、避けることはトラブルを回避する手段ではありますが、真人さんのように避けようとしていたはずが、すでに変わってしまった自分自身に気が付いていなかった、というのが今回伺ったお話でした。
私達が不思議に思う事象や、能力など、知らないだけで当たり前に存在する世界は、実はごく身近にあるのかも知れません。
コメント