連れてきてもらったことに礼を言う奥さん。しばらく沈黙していると、どうして急に泊まりに行こうと思ったのか、と聞いてきます。
モモを連れてこういうとこに来たかった、と答えるフミオさんに、
「ううん、なんで私も誘ったのかなってこと」
「なんで、か。深い意味はないよ。行くなら一緒にって思ったんだ」
窓から入る潮風は、夜が更けるにつれ次第に冷えてきます。
「不思議だなぁって思ったの。ついこの間まで私達会話も無かったのにね」
奥さんの言葉に同意して頷くフミオさん。
そして
「あなたは私と離婚するつもりなのかと思ってた。ずいぶん前からね。でも何も言わないと思ってたら勝手に犬を飼い始めるし何考えてるのかさっぱりわからなかったのよ」
「そうだよな。お互いに離婚するんだって…思ってたってことだ。でもモモを飼ってから離婚することになったら、それで仕方ないと思ってた。お前が居なくなったらこの先モモだけでも一緒に居てくれればってね」
「自分の周りから誰も居なくなるから、側に居てくれるパートナーが欲しかったんだ?」
「ああ」
「それで?あなたは離婚しようと思ってるの?」
二人を隔てたテーブルには、空のグラスと滴り落ちた水滴の輪に沈んだビール瓶があります。
「離婚は…自分でもよくわからない。でも今はそうは思ってない」
奥さんは無言で話の続きを待ちます。
「モモが来てからお前にはいろいろ感謝してるし、家事をやってみて負担を掛けすぎてたのに今さら気付いた。俺自身今までのことで反省するところもある。今日一緒に居てお前とモモと一緒にやっていけないかと思ったんだ」
砂浜を静かに濡らす波の音にフミオさんが聞き入っていると
「お前、ってね」
ん?と奥さんの言葉に戸惑い、聞き返すフミオさん。
「お前、って呼ばれてきたけど命令されてるようでずっと嫌だった。それに家事で負担掛けてきたって、今さら気付くことでもないと思うし。でもそういう日常のすれ違いも、嫌だと思った事も、はっきり言ってこなかった私も良くないと思ってる」
フミオさんの顔を見て一呼吸置いた後、奥さんは話を続けました。
「それにあなたが昔不倫してたのは一度や二度じゃなかった。気付いてないと思ってるけど、私はちゃんと知ってる。それから兄のことがあった。当たり前だけどあなたはずいぶん怒ってて、父を馬鹿にするような事も言った」
奥さんは当時を思い出したのか、言葉を詰まらせました。
「あなたにはちゃんと言わなかったけど、父が居なくなったのは外で女を作ったからだった。私達を捨てて父は出ていった。でも私達家族には父の良い思い出しかなかった。家族みんなが大好きな最高の父親だった。だから居なくなっても誰も父を憎むことができなかった。ただただ悲しいだけで父のことを嫌いになれなかったの」
淡々と話す奥さんに圧倒され、フミオさんは言葉が出ませんでした。
「それで一時期私は壊れちゃってた。あの子が進学してあなたと二人になって、それで…あなたがモモを飼ったように、私は他に男を作ったの」
「予想外の話だったよ。まさか想像もしてなかったね。でも冷静に思い返してみるとね、会話はなかったけど様子がおかしい時があったんだ。 まあ頭から女房が不倫するなんて考えてもないから、気が付かなかったよね。それで女房の告白を聞いたもんだから驚いたよ。言葉が出ないし何も言えなかったね。自分も不倫してて女房を責められないし。最後に女房が、もう別れて今はしてないけど、ちょうど俺がモモを飼い始めた時まで続いてたってね。そう言ったんだ」
奥さんの告白を聞いて二人とも無言のまま言葉が出ませんでした。
もう寝よう、とようやくフミオさんが言って二人とも布団に入りました。
その後、ほとんど眠れないまま朝を迎えたフミオさん。奥さんも眠れずにいたようでした。
「旅館で朝飯食ってね。またシンプルだけど美味いんだよ。美味いなぁって言ったきりね、会話も弾まないよね。昨夜あんな話の後だし、寝不足だしさ」
自宅に帰る車内でも、お互いに口数も少なく黙り込む時間が長かったそうですが、フミオさんは昨夜眠れずに考えた事を口にします。
「これからどうするか、焦らないで考えようって。すぐに結論を出すこともないだろう、って。すると女房は娘が結婚するまでは別れないでいようって思ってたけど、って言うんだ。でもそれじゃいつになるか分かんないぞって言うとさ、そうね、なんて笑ってたけどね」
不貞行為があったことについては、お互いどう考えていたのでしょう。
「そのことも話したよ。お互い不倫して許せるかってね。もし許せたとしてもまたやるかも知れないとかね。まず俺はもう不倫はしないだろうし、別れても一人で暮らすだろうってね。そこまで俺は性欲が強くないんだ。五十過ぎてからだいぶ衰えてきたのに女遊びする意味も無いよ。女の不倫は男とは違うみたいだけどね、女房は先のことはわからないけど、って言ってたね」
奥さんはまた不倫するかも知れないと?
「いや、俺のことが許せるなら不倫なんてしないだろうって言うんだ。じゃあどうなんだ?って聞くとまだわからないってね。煮詰まらないなと思ったけどさ、長年ため込んだ感情をどう整理していいか分からないんだろう」
それで話し合って結論はどうなったのでしょうか?
「俺はこのまま夫婦でいたいってね。そう言ったよ。結論は納得するまで考えてくれってね、そしたら全く関係ないとこでクレームが入ってね」
クレーム?
「そう、モモのことなんだ。マンションのオーナーから勝手にペットを飼うのは契約違反だと文面がきてね、何言ってんだ同じフロアで飼ってるのが居るじゃないかって思ったけど、ペットを飼ってる人は敷金も家賃も高く払ってもらってるんだ、ってね。それで俺も考えたんだ」
考えたとはどういうことでしょうか。
「ずっとこのマンションに住んでたんだ。この辺が潮時かもなって。少し田舎に引っ込んでもいいから家を買おうってね」
それは奥さんと話してですか?
「ああ、話したけどね。資金は大丈夫だし家を買ってみたい、ってね。すると女房は複雑な顔してたけど。いいさ軽い気持ちで考えてみなよ。引っ越してから離婚したいってなっても、俺は怒らないってね」
フミオさんは奥さんが不安にならないよう、記入済みの離婚届を渡したとの事です。
「言ったことに嘘がないように、ちゃんと俺の分は記入しといた。これで離婚しようと決めたなら出して構わないってね。でもせめて一ヶ月前くらいには出すなら言ってくれってね」
家はもう購入されたのですか?
「ああ、駅から離れたけど俺は車で通うことにしたし、女房はもともと車通勤で少し遠くなったくらいでね。仕事の影響はそんなないんだ。良いのはモモのドッグランを作ったのと少し畑もやり出してね。家でいろいろやるのが楽しいんだ、それで女房も悩んでた割には意外と楽しんでるよ」
奥さんも?ですか
「イングリッシュガーデンってのを作っててね。洋風のアイテムやいろんな花買ってきてさ、綺麗に飾り付けてるよ。この前冗談でこんなに手間かけて離婚しても持っていけないぞ、って言うと、咲かなくなったら考えるわよ、って言うわりには毎年咲くように多年草植えてる、なんて言ってたんだよね」
ではもう、離婚の危機は乗り越えたと思いますか?
「冷静に考えるとそれはわからないね。女房がすぐ黙り込んだりするところは変わってないんだ。でもモモが居るといい緩衝材になってね、犬にはそういうことを察知してくれるらしい。モモは俺達がギクシャクするとわざとイタズラしたりね。場を和ませてくれるよ」
お二人の気持ちがだいぶ変わってきたように思えます。
「そうだね。いつからか…モモと暮らすようになってから少しずつ変わってきたね。モモにずいぶん救われたな。モモを通して女房に感謝することも多いよ。それに…」
何か思い出したように少しの間黙り込むと
「モモと暮らすようになって、女房とも一緒にいたいと思うようになった。不思議なもんだよね。上手く言えないけど。大げさな言い方するとモモが俺達に希望を持たせてくれたのかなって。そんな気がするんだよ」
亭主関白気味な仕事人間だったフミオさんの態度に小さな不満が蓄積していった奥さん。
衝突を避けるため、あるいは面倒だからと伝えずに過ごしてきた結果、フミオさんへの嫌悪感が膨らんでしまいました。
フミオさんの気遣いの無さと奥さんの性格が夫婦の溝を広げていったのです。
感情をぶつけ合う夫婦もいれば、お互いがそのくらい理解できるだろうと腹立たしく思うだけで黙り込んでしまう夫婦もいます。
そのわだかまりを解消するのは難しいことですが、環境の変化や年齢を重ねていくとお互いに歩み寄ることができたり、
あるいはフミオさんご夫婦のようにペットを飼うことがきっかけで関係が修復に向かうこともあるでしょう。
熟年を迎え問題を抱えた多くのご夫婦がどのような選択をするのか、
フミオさんご夫婦の選んだ選択が一つの指針となれば幸いです。
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