「正直その時の女房が何考えてたのかよくわからなかったね。でも変わらず無視するから俺も面倒くさくなったんだ。離婚してくれってこっちが言うか、とも思ったけどね」
そんなある日、モモが寝た後リビングでビールを飲んでいると、突然奥さんが入ってきました。
冷蔵庫から同じビールを出した奥さんが
「もらっていい?」と尋ねます。
ビールはいつも、フミオさんがストックしてありました。奥さんが飲むのは珍しく、いいよ、と頷くと向かいの椅子に腰を下ろしました。
「珍しいな、こんな時間に。明日は休みなのか?」
突然現れた奥さんに戸惑うフミオさん。
小さく頷いて答える奥さんに、
「あらためて言うけど、散歩ありがとな。モモも喜んでるよ」
と、言うと
「モモって名前なんだ?知らなかったから、チビって呼んでたよ」
と言って微笑みます。
「まあね、確かにチビって感じはするな」
とつられて笑顔になるフミオさん。
しばらく沈黙し、ビールが喉を通る音だけが聞こえます。
「どういう理由があるの?」
ビール缶のデザインを眺めながら奥さんが口を開きます。
「理由?モモを飼い始めた理由ってことか」
ビール缶を眺めたまま、そうだと頷く奥さん。
「仕事がさ、第一線でやってきたつもりがまさかの出向になったからな。それで仕事だけじゃなく付き合ってた連中ともだんだん疎遠になってね。気が付くと仕事もプライベートもすっかり暇になってたよ。残ったのは時間だけ」
奥さんは一定のペースでビールを飲み続けていました。黙ってフミオさんの話を聞きます。
「それで二軒隣の犬と顔を合わしてるうちに昔飼ってた犬のこととかいろいろ思い出してさ。子供みたいにどうしても犬を飼いたくなった」
「それで私に相談もなく決めたの?」
飲み終えた缶を置いて、奥さんが言うと
「ああ、悪かった」とフミオさんは謝りました。
「珍しいわねえ」
と奥さんに言われ、意味が分からず
「珍しい?何を」
と聞き返します。
「ほんとに気付いてないの?あなた今までほとんど私に謝ったり、感謝することもなかったのよ。それが犬のことになると急に下手に出るからちょっと驚いたのよ」
そう言われ確かにそうだな、と納得しました。
自分が勝手に家に連れてきたモモに、何かされても嫌だなと思う気持ちもあったのです。
「モモは…夕方は私が散歩に連れてった方がいいでしょう。長い時間サークルに入れとけないし」
「そうしてもらえると助かるよ。十二時間サークルの中じゃ可哀想だ」
「じゃあ決まりね。あとサークルだけどあなたの部屋は西日が凄いからリビングに移動したほうがいいよ、それと」
少し間を置いて奥さんは
「あなたも家事を分担して。今まで自分の食べた食器を洗う以外何もしてこなかったでしょう。これからはお風呂とトイレ掃除、ゴミ出しをして欲しいの。私は食事の用意と買い物と洗濯と部屋の掃除やら細々と…とにかくそれだけ分担できれば、私も余裕が出てくるから」
家事の分担。今までなんとなく、自分が手を出さない方がいいのかと思っていたので奥さんからの提案を拒否する理由もありませんでした。
そしてお互いが納得して長話を終え、それぞれの寝床へと戻りました。
夕方の散歩を任せられて少し気が楽になったフミオさんは早速翌日にはモモのゲージもリビングに移動しました。
そして約束通り朝の散歩を終えたら風呂とトイレを掃除し、ゴミがあるときはまとめて出してから出勤しました。
奥さんも毎日モモを散歩に連れて行き、サークルの中を掃除してあったり、給水器やフードの世話もしてくれました。
そして少しずつ顔を合わせることが増えました。
モモのこと、散歩での出来事など話していると、長年住んでいても散歩してみて初めて知るようなこともあるんだと気付かされました。
まるで普通の熟年夫婦のように、多くはないですが会話をするようになった二人。
お互いに対する意識も変わってきたように思いました。
会話が生まれると、この前までいつ離婚しようかと思っていたのを忘れてしまうのが不思議でした。
「俺も自分で不思議だったよ。でも女房はどう考えてるのかわからなかったけどね」
そんな時、同じ犬を飼っている職場の若い同僚から、南にある貸別荘に泊まった時の話を聞きました。
「良かったですよー。専用ドッグランもあって。目の前はオーシャンビュー。飯はついてないですけど近くの寿司屋で出前も取れるし、地元の海鮮がまた美味いんですよ。オススメですよあそこ」
若い同僚は自分のスマホに撮った写真を見せてきました。
テラスから撮ったという、沈んでいく夕日が鮮やかに海面を染めている写真や、綺麗に整った芝生をジャンプする犬と同僚の奥さんの写真。
写真を見ていると、モモと奥さんが楽しそうに戯れている絵が浮かんできました。
自分でも不思議なくらい、その絵を現実に見てみたいとフミさんは思い始めました。
「貸別荘?モモを連れて泊まりで?」
同僚の写真を見てから数日後、奥さんを誘ってみたフミオさん。
驚いて目を丸くする奥さんに
「ああ、今は流行りみたいなもんでそういう施設が結構たくさんあるんだよ。たまにはそういう贅沢もいいと思ってね。モモも喜ぶだろうし」
「どんなところなの?」
フミオさんは同僚に教えてもらったウェブサイトを開いて、表示されたペット同伴で泊まれる宿泊施設や貸別荘の画面を奥さんに見せました。
「ふぅーーん」
と、感心しているような、フミオさんの提案に何か疑いを抱いているような返事でした。
そして奥さんのスマホにそのウェブサイトを転送すると、ちょっと見てみるから、と言い残して自分の部屋へと引き上げました。
リビングに残ったフミオさんも少し複雑な気持ちになっていました。
奥さんを一泊旅行に誘う、という普通ならよくある話ですが、ついこの前まで離婚しようか悩んでいた夫婦が、急に一緒に泊まりで出掛けるというのも変な話です。
リビングのソファーに寝そべりくつろぐモモに
「モモはどう思う?」
と聞いてみると、面倒くさそうにフミオさんを見て、また目を閉じて眠ってしまいました。
結局それから半月後の平日に珍しく有給を使って、フミオさんは海沿いの旅館へと向かいました。
後部座席にモモ専用のスペースを作り、助手席に奥さんを乗せて海沿いの道路を走ると、波の音が車の窓に打ち付け、潮風が髪をなびかせます。
太陽が眩しく、高く澄んだ空を見ていると心が洗われる気がしました。
宿は話し合った結果、貸別荘で食事の用意を気にするより、最初から食事付の旅館を選ぶことにしたそうです。
旅館に着いて部屋に上がると写真で見た通りのオーシャンビューで、あぁ、すごい、と西日に煌めく海面を見ながら奥さんが呟きます。
窓を開けると波の音と潮の香りを感じて、モモは匂いに反応したのか窓枠に前足を乗せながら、砂浜をじっと見つめています。
やがて我慢できなくなったのか、早く外に行こうと落ち着きなくはしゃぎ出したモモと奥さんと海岸線を散歩しました。
「離婚してたら一人でモモを連れてくることになるのかと思うとね、それは想像できないよね。やっぱり女房がいた方がいいよ。でもウチの場合は二人で泊まるなんて新婚旅行以来だし、ついこの間まで会話も無いような夫婦だったから、ぎこちないというか落ち着かないというかね。女房もそうだろうけど」
そう考えていたフミオさんでしたが、モモはグルグルと回ったり飛び付いたりしながら二人一緒に散歩するのが嬉しそうでした。
「十月の始めだったけど、夏の名残があってね。冷たい風に混じって生ぬるいのが頬を撫でてくんだよ。そのせいかモモもバテ気味だったけど、初めての海だからか舌出したままずっと女房とじゃれ合ってるんだ。その景色がね、妙に琴線に触れるんだ。いろいろ違うこと思ったりしたけどひょっとして俺はこの景色を見たかったんじゃないかってね。そんな風に思い直したりもしたんだよ」
海ではしゃいだ後、旅館に戻るとそれぞれオーシャンビューの大浴場で汗を流しました。
のぼせた身体を乾いた夜の潮風で冷やしていると、部屋に食事が運ばれてきました。
「今日獲れた地元の海鮮だってことで、刺身も鍋も天ぷらもね、食べきれないと思う量が出てくるし、味も良いし満足だったよ。女房と美味いなって言って食べたんだ」
食事を終え、穏やかな波が砂浜に寄せる音を聴きながら窓際のソファーでくつろぐフミオさんと奥さん。モモは疲れたのか床に突っ伏して眠っています。
「ちょうどいいひんやりした夜風が入ってきてね、海は真っ暗で波の音しか聞こえないけど遠くの対岸にネオンが見えたんだ、女房とビール飲みながら来て良かったなぁ、なんて満足してたんだ」
すると奥さんが話し始めました。
「今日のような良い思い出をこれからも夫婦一緒に、みたいなね。そんな感謝の言葉を聞けると俺は思ったよ」
しかし奥さんの話す内容は、フミオさんにとって予想外のものでした。
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