閉店時間が近づいた店内は空いていて、ガラス張りのゲージに入った様々な犬種の子犬が、フミオさんを見て尻尾を振ってきます。近づくとガラスを引っ掻きフミオさんに興味を示します。
「ワンちゃんをお探しですか」
気が付くと娘と変わらない年代の店員から話しかけられたフミオさん。
「結構いろんな種類があるんだね」
落ち着きがなくグルグルと回り始めた目の前のトイプードルを見ながら、フミオさんは答えました。
「気になる子がいたら抱っこもできますよ」
店員の言葉に少し照れくささもあり、戸惑いながら見渡すと他よりもずいぶん安く売られている犬を見つけます。
茶色い中に黒い毛が混じっていて、雑種犬のような子犬の紹介文には【胡麻柴】と書かれていました。
「ごましば?」
とフミオさんが思わずつぶやくと
「そうです。胡麻柴って呼ばれてて柴は今すごく人気があるんですけどこの子は半年過ぎてまだ飼い主さんが決まらないんです。人懐っこい、いい子なんですよ」
胡麻芝は眠いのかそれとも諦めているのか、フミオさんの方を一度見ただけで横を向いて目を閉じました。
閉店時間となり、ペットショップを後にしたフミオさんは、家に着くと静かなリビングで一人ビールを飲み始めました。
そしてさっき見た胡麻柴が、このリビングに座っている風景を想像してみます。
「子供じゃないんだから今さらペット飼うなんてね。しかも犬なんてね。どれだけ世話が掛かるかも知らないのにさ」
そう思いながらも、あの胡麻柴が頭から離れなかったそうです。
「昔飼ってた犬と似てるんだよ」
リビングは変わらずしんとしていて、聞こえるのは遠くの幹線道路でバイクをふかす音だけでした。
空になった三本のビール缶をぼんやりと眺め続けたフミオさんはアルコールが回ってくると、今後どうするのかあれこれ考えるそうです。
「女房とはいずれ、離婚することになるだろうし。それが定年したタイミングだろうな、ってね。その後俺はどうしたいのか?何度も考えたけど、新しいパートナーとかって俺は面倒くさいし。一人でやれるとこまで、ヨボヨボになる前にパタッと死ねればいいけど、俺も柴田さんのようになるのか、なんて落ち込んだりね」
そして考えを整理するように、前を見据えたフミオさん。
「大袈裟に言うとこの先の人生、何も無いんだ。家庭もない、パートナーもいない、日々の楽しみも目標もない。だからなんだ迎え入れようって思ったのは」
それから半月ほど過ぎた金曜日の夜、一度帰宅して車であのペットショップを訪れたフミオさん。
サークルや容器など事前に購入してあったものを車に積み込んで、最後の書類にサインをします。
そして新しいハーネスとリードを手に取ると、あの胡麻柴に装着しました。
「お名前は決めたんですか?」
そう店員に聞かれて、まだ決めてないんだよね、と照れて誤魔化したフミオさん。
そっと抱えてフラットにした後部座席へ乗せると、不安なのか窓を引っ掻き始めたので
「大丈夫だ、モモ。新しい家に一緒に帰ろう」
そう言い聞かせ、ゆっくりと車を走らせました。
その日はちょうど産まれて七ヶ月目。女の子の胡麻芝に【モモ】とフミオさんは名付けていました。
マンションの駐車場から先に荷物を運び込んで最後にモモを下ろすと、辺りを手当たり次第嗅ぎながらリードをグイグイ引っ張ります。
二十時を過ぎたマンションは静まり返っていて、モモがコンクリートの床を引っ掻く乾いた音が思いの外響くので、抱き抱えて部屋まで運ぶことにしました。
フミオさんの部屋に入ると、一つ一つ周囲を確認するように嗅ぎ回るモモ。
その横でフミオさんはサークルを組み立て始めます。
完成したサークルに入れてみようとすると、追いかけっこが始まったと思ったのか、フミオさんをからかうようにモモは逃げ回ります。
その愛らしい姿に追いかけながら笑みがこぼれるフミオさん。
そして気がつくと呆然と立ち尽くしてモモとフミオさんを見る奥さんの姿がありました。
「怒るだろうなと思ったよ。まあ、当然怒るよな。勝手に犬なんか買ってきてサークなんか置いてるんだもんな。でも覚悟してたんだ。こんな勝手なことして離婚だ、ってなったら受け入れてやるってね」
奥さんは怒りを通り越して呆れたのか
「どういうことなのこれ」
と、冷たく言い放ちました。
「黙ってて悪かったけど、訳あって犬を飼うことにしたんだ」
「訳って?誰かに頼まれたの?」
「いや、そうじゃない。あくまで俺の都合だ。俺の都合でお前に説明もなく買ってきた。置いてやってくれ。全ての世話は俺がするから」
そう言うフミオさんを見据えながら
「なに言ってるの?そんな勝手なことよくできるわね」
と怒りを押し殺すように奥さんは言います。
「ああ、悪いとは思うけど。どうしても飼いたかったんだ」
フミオさんが話を終えるのを待たずに、奥さんは部屋から出ていきました。
「とうとうこれで離婚を言い渡されるなと思ったよ。そうなれば大変だろうけど、先延ばしにするよりお互いに良いだろうから」
サークルに収まったモモを見ながら、そんなことを考えていました。
それからのフミオさんの生活は、思った以上にモモ中心の生活になりました。
出勤前の散歩、帰宅後の散歩とフードや水の用意、ブラッシング、それだけでも想像以上の負担でした。
「その時は仕事が適当だったからなんとかモモに体力を残せたんだと思うんだ。バリバリやってたんじゃ帰りも遅くなるからね。それでも七時前に家出て、十九時くらいに帰宅だからモモも留守番が長くなってね。可哀想だけど仕方なかったんだ」
奥さんとはその後、どうなりましたか?
「女房とはしばらく、一切会話もなく置き手紙もなかった。だから俺も腹を決めてたよ。でもそれから数ヵ月、半年過ぎても何も言ってこない。女房もいろいろ準備とかしてるのか、って思ってたんだけどね」
そんなある日、フミオさんは意外な事を知ることになります。
いつものように朝の散歩を終え、出勤しようと表に出ると掃き掃除をする管理人と鉢合わせました。
挨拶をすると、管理人が
「お宅も犬を飼い始めたんだねえ」
と話し掛けてきます。
朝の散歩は管理人が出勤する前に終えるのによく知ってるな、誰かが俺のように管理人に何か言ったかな、とフミオさんが思っていると
「夕方、奥さんが散歩に連れて出てるね。まあ犬はさ、嫌いな人には迷惑だろうけどね、奥さんは好きそうだからお宅も折れたんだねえ」
管理人が言った予想外の事実に、フミオさんは言葉を失いました。
女房がモモを散歩に?
そういえば最近、朝も夜も散歩でウンチをしない時があり、不思議に思っていたのが府に落ちました。
「驚いたよ。女房がそんなことしてるなんてね。俺には腹を立ててるだろうけどモモのことは別だって思ってたならありがたいよ。俺が帰るまで十二時間もゲージの中じゃ可哀想だからさ」
フミオさんは迷いましたが、奥さんに置き手紙を残すことにしました。
『散歩してくれてるとは知らなかった。助かるよ。ありがとう』
奥さんから何も返事はなかったものの 、モモを散歩してくれるならそれでいい、とフミオさんは思いました。
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