ある日夕飯を食べていると、夫から相談を持ちかけられた裕子さん。
「犬を飼ってみないか、って夫が言い出したんで驚いて。理由を聞くと同僚のお父さんのところにまだ子犬のゴールデンレトリーバーがいて、急病で世話ができないから引き取り手を探してる、って…その時はゴールデンレトリーバー?って感じで名前を聞いたことがあっても実際はどんな犬かも知らないし、まさか大型犬だったなんて後で驚いたんです」
実は裕子さんは今までペットをペットを飼うことを避けてきました。小学生の頃に飼ったハムスターが亡くなった時の悲しみが強く残っていて、それ以来いつか別れる時が来ると思うと、飼うのを躊躇するようになったそうです。
「これは何か巡り合わせのようなものかもしれない、なんて夫が言うんです。ちょっとロマンチックなところがあるので良いように考えてるなって思いましたけど、私も義母との別れを経験してから自分の意識が変わってきていたし、夫と私の寂しさを埋めてくれるんじゃないかって、そんな気持ちになっていました」
そこからの夫の行動は早く、話し合った翌日、平日にも関わらずその子犬を連れて帰ってきたそうで、
「もう、本当にすごかったんですよ、想像を遥かに越えてました。子犬が家の中に居るだけで、今までの生活が180度変わるんですよね。とにかく世話に追われて、静かだった我が家はお祭り騒ぎでした」
犬は女の子でした。悩んだ末に名前は『ナナ』にしました。貰ってきた日が七日で、ナナ。
それから二ヶ月ほどの間、ナナのトイレのしつけ、食事の用意、散歩、ワクチン接種や市役所に登録を行ったりと忙しい日々を送ります。
「三ヶ月くらい経ってやっと、家の中でトイレをすることもなくなってきました。食欲も旺盛で、元気に成長して生後六ヶ月くらいだったかな、体重を測ったら二十キロ超えてましたね、さすが大型犬だって。そんな大きな体で子犬の頃と変わらずに甘えてくるのも可愛くて」
休日は広い敷地内で自由に遊び回ったナナ。
「寂しがり屋で、イタズラ好きで、敷地内を好きにさせていたら身体中泥だらけで後が大変なんですけど、誰かと遊びたいんでしょうね。気を引くためにわざとやってるんですね。ある時はどこから見つけてきたのか義母がいつも着けていたゴム手袋を咥えてきたんでびっくりして。私の反応が面白かったのか独り遊びに飽きてくるとその手袋を持ってくるようになりました」
家の中を明るく賑やかにしてくれるナナ。
義母が居た頃のような笑顔の絶えない日常が戻ってきました。
「それが続いたのが二年。何て言ったらいいのかもう、辛くて辛くて。こんなの酷いと思いました。どうしてこんなことになるんだろうって」
その年の桜が開花し始めた頃、アレルギー体質の夫が喘息で辛そうな日が続いたそうです。
「病院で薬を貰ってくる、そう言って出勤した日でした」
夫が会社で倒れ救急車で運ばれた、と裕子さんに連絡が入ります。
裕子さんが病院に駆けつけた時には、夫は亡くなっていました。
死因は心不全だったそうです。
「それからはよく思い出せないことも多くて。葬儀の手続きやいろいろは両親が来て進めてくれました。夫を送り出して両親が帰った後、私とナナだけが広い家に残されました」
夫を送り出した後、勤め先にはしばらく休ませて欲しいと連絡し、家の中でぼんやり過ごしていた裕子さん。
ナナを散歩に連れていく元気もなかったので家と敷地内を自由に往き来させていました。
「何も考えられませんでしたし、考えたくもなかったんです。考えれば考えるほど誰かを恨んだり、絶望するだけだったんで。テレビを見るのがしんどくて、小さくラジオをつけたままにして、寝たり起きたりしていました。お腹が空くと適当にあるものを口にして。夫が冷やしていたビールを冷蔵庫から出して飲むとまた寝て」
このまま死ねたら楽だろうな、と裕子さんは考えるようになりました。
ただ心配なのはナナのことです。
最初の飼い主とも別れて、私も居なくなって、どこか保護施設のようなところで面倒を見てもらえるのだろうか。
夫はなぜ、ナナに責任も果たさず自分勝手に逝ってしまったのだろう。
辛くなるから考えないようにしていた頭の中で、夫のこと、義母のこと、幸せだった家族の記憶が止めどなく浮かんできました。涙が溢れ、もう自分では止めることができず、裕子さんは声をあげて泣きました。そして泣き疲れて横たわったまま、もうこれで終わっても良いのかなと思ったそうです。
「もう体力も気力も、何も残ってなくて。このまま手首でも切ろうかと思って立ち上がろうとしても、ふらついて立てないんです。そしたら熱が出たみたいで身体中だるくて熱くて、動けなくなって。このまま死ねないかな、って思いながら意識が遠退いていったんです」
やがてどのくらい時間が経ったのか、おぼろげに意識が戻ると、外からオレンジ色の鮮やかな光が部屋に差し込んでいるのがわかりました。
夕日なのか朝日なのかわからないまま、目の前にある散らかった部屋の様子を眺めていたそうです。
「足音がするんです。ナナが家に入ってきた足音が聞こえて。そういえば私がこんな状態になってからナナとふれあうこともしませんでした。あんなに普段話しかけて表情を見て抱き抱えてナナと心を通わせていたのに」
するとナナは横たわった裕子さんに近付いてきました。息が少し荒くなっているナナ。久しぶりにナナと目を合わせました。
「様子を伺いながらナナは咥えていたものを床に落としました。そしてまた私を見るんです。大丈夫?って。咥えてきたのは義母の手袋でした。ゴミの中に入れたと思っていたんですが、私に見せようと探してきたんです。それを見せれば笑いながら追いかけてくるだろうって」
ナナは裕子さんをじっと見ながら、その場を動こうとしません。
「ナナはずっと私を見ていたんです。どうすれば私が元気になるかって、心配してくれていたんです」
裕子さんは力を振り絞って立ち上がりました。するとナナは急いで手袋を咥え、外に逃げ出します。
追いかけて外に出ると、嬉しそうに距離をとりながら様子を伺います。畑に逃げたナナを追いかけて足を踏み入れると力が入らずもつれて転倒してしまいました。
「身体中砂だらけで座り込んでいるとナナがぐるぐる私の周りを動きながら嬉しそうちょっかいを出してくるんです。その様子を見て私も久しぶりに笑顔になれました。ナナもさらにはしゃぎ出して砂だらけになりながら久し振りに息が切れるまで遊びました」
やがて疲れて座り込んだ裕子さん。するとナナが近付いてきました。
「ナナは私を覗き込むように見ると、汚れた頬をペロペロと舐め始めたんです。ナナいいよ、大丈夫だよ、って言ってもやめないんです。ナナはわかってたんですね、私は涙が溢れてきて砂と涙で顔がぐちゃぐちゃになって。それをナナが慰めるように舐めてくれたんです」
裕子さんはナナを抱きしめ、ナナも気持ちを察したように動かずにそのままじっと寄り添ってくれたそうです。
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